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岐阜城(稲葉山上)は、「麒麟がくる」ですが、私たち岐阜県民は当たり前のように毎日見ていて、ずっとあそこにあるような気がしていましたが、実は場所が違うんですって、

最近読んだ城の本3冊に書いてあったのですが、そこにあった図を現在の地図に縮尺を合わせて重ねた画像を掲載してみます。
※画像はブログ管理人が作成しましたので、学術的に間違ってたらごめんなさい


まずこれが竹中半兵衛が占拠したと言われる稲葉山砦。
なぜ少数で占拠できたかの謎もこの図を見るとわかりやすいです。
稲葉山城
図の上の方に竹中邸という文字が見えます。
数個の砦が連携して城の役割を果たしていた稲葉山城の中で、竹中邸は稲荷山砦の真下にあるんですね。

稲葉山砦から見ると竹中邸は堀の役割をしていた梶川のすぐそばにあり、稲葉山砦までの距離は250mほど、標高233mですので、城の防衛線の内側に邸宅があったということになります。邸宅の位置からも重用されていた家臣の一人だと思われますので、斎藤家にしてみれば信頼していた家臣がいきなり反乱したという感じだったんでしょうね。

そしてこの図の場所、現在の地図に当てはめると、この位置なんです。
稲葉山城_2020

もう少しわかりやすく、位置関係を現在の地図で作ってみました。
岐阜と稲葉山

そして信長時代の岐阜城を現在の地図と重ねた画像がこれです。
画像の中にもしっかりと稲葉山砦という文字と、岐阜城という文字が見えるかと思います。
岐阜城2010
こうして地図で見ると、総構とよばれる町を城の中に取り込んだ形の城であれば、稲葉山砦のほうが確かに町の中心を威圧し、「御鮨街道」と呼ばれる道がその町の真ん中を通過していましたので、関所を設けるのにも都合がよかったように見えます。


そしてこの図を見てきっと突っ込まれるでしょう。
川の流れ違うじゃないかと。
でも、1890年の地図と重ねると、当時は川の流れは今より南北にうねっていたんですね。
岐阜城_1890

そしてこの図を見るとわかりますが、かつて信長が築いた岐阜城のふもとにあった御殿は「御鮨街道」の終着点付近にあります。

この図は街道の走行を示した図です。
「御鮨街道」が信長の館があったあたりを起点としているのがわかると思います。
街道

ですので勝手な想像ですが、斎藤家は町の実効支配を優先し、信長は館を街道の起点において、そこを中心に防御のしやすい、そして他国からも見える山の頂上に天守を築いたというのが実情だったのではないでしょうか?

NHKの「ブラタモリ」でもやっていましたが、実際に岐阜城の天守は濃尾平野のかなり距離が離れた位置からでも見えたようです。金華山は標高329mで標高233mの稲荷山よりも遠くから見えます。

防御の拠点であると同時に、街道を通る一般人をはじめ武家にも権勢を示す城、そんな城にしたくって、築城スペースが限られた金華山をあえて選んだんだと思います。