カテゴリ:
普段から着物を着るようになって思ったことなんですけど、そもそもなんであの袖ついているんでしょうか? 掃除・洗濯・料理などするときに必ずタスキがいりますが、それって非効率なのでは?

そんな疑問を持った時、きっと着物の成り立ちを学べばその疑問も解決されるのではと思い、調べてみました。

まとめ
長くなったので最初にまとめを書きます。現在の着物文化は昭和中期に形成されました。
元々は袖は用途に応じて短かったり長かったりしましたが、着物文化の衰退の結果、高級なものだけが生き残り、あの袖の形=着物という価値観が定着したようです。

なので、着物の着るお作法なんかも、案外最近(とはいっても昭和に入って)作られたものだそうです。だからもっと気軽に着ればよいと私は思います。


着物のルーツは平安時代の小袖
複数のサイトで調べてみると、共通して「着物のルーツは平安時代の小袖」という記載があります。

流れとしては1枚の布を体に巻き付けるだけの巻布衣(かんぷい)、布に開いた穴に頭を通す貫頭衣(かんとうい)が大陸文化の影響を受けつつ平安時代に庶民の間で小袖に進化します。この小袖を貴族が装束の下着として取り入れます。理由は貴族のこれまでの下着が着るのが面倒だったからと言われています。

袖口の誕生と着物という名前の登場
平安時代、庶民の来ていた着物は先の巻布衣(かんぷい)に筒袖を付けただけの動きやすい小袖でしたが、いつの時代にも権力者は違いを出したいもの。

こんな感じの筒袖とは違う形のものを着用するようになりました。


支配階級は袖口が縫われていない形をとり、庶民の着物と区別するために大袖と呼ばれました。
この大袖を重ね着したもので有名なのは、十二単です。この十二単、元々は派手に見せようという意図と共に、気候に合わせて着る枚数を変えるような着方がされていました。

しかし時代とともに庶民の小袖も進化し、袖口下に丸みがつき、あるいは、下に長く伸びて袂(たもと)がある着物が着られるようになってきました。この袂(たもと)つきの小袖を、筒袖つきの小袖と区別するために生まれた言葉が着物になります。庶民の着物で袖がついた理由については、ポケットとしての役割を担うためだと言われています。

武家の台頭と袴の登場
小袖は動きやすさを評価され、室町時代に入る頃には武家の中で絹の「小袖」を普段着に、儀礼ごとには武家独自のスタイルの「大袖」が着られるようになりました。武家女性の間では、小袖に打掛(うちかけ)という上着を羽織るのが正装となりました。

袴もこの頃の武家の間で広まりました。


振袖の登場
江戸時代に入る頃には着物の形はほぼ現代のものと変わらなくなりました。その中で、振袖と呼ばれるタイプのものは若い女性や元服(成人)前の男の子が着用し、元服と共に振りを縫う習慣がありました。

この振袖、江戸初期の踊り子達が着用し、着物の袖を振ると「愛情を示す」、すがると「哀れみを請う」ということを表現していたようです。これを世の未婚女性たちが真似をし、大流行したため、振袖は「未婚女性の着物」とする習慣が生まれたと言われています。

そして未婚女性に広がったことで、この袖を使って想いを示すようになります。この理由として、女性が恋愛に関する感情を直接言葉で伝えるのを恥とする文化がありました。男性よりの想いを受けるなら
「袖を左右」に、受けないなら「袖を前後」に振って意思表示をしました。

この動作が「フラれる」という言葉の語源となっています。

卒業式で着る振袖 -いつ頃から着られている?-
明治時代の女学生の制服が袴だったことが起源となっています。その後大正9(1920)年、平安女学院が日本で初めてセーラー服を制服として採用し、これが全国に徐々に浸透しましたが、昭和初期には制服としての振袖は姿を消します。
しかし卒業式でこれを着る文化のみは残り、現在に至ります。

ちなみに卒業式で着られる振袖は小振袖(袖の長さ76cm程度)で、主に袴と合わせて着られることが多いタイプの振袖となっています。


晴れ着としての振袖 -成人式で着るようになったのはいつ頃?-
これ、調べてみると結構最近なんですね。

はじまりは1945年、埼玉県の蕨市で戦争で疲れ切っている若者を激励しようと「青年祭」という催し物を企画、その中で行われた「青年式」が好評でこれが広がり1948年に1月15日が「成人の日」と制定され、各自治体が成人式をするようになりました。
そしてその時の服装が、未婚女性の第一礼装と明治時代に定められていた振袖を着ていることが多く、振袖=成人式という図式が広がりました。

ちなみに成人式の振袖は分類としては「中振袖」(袖の長さ100cm程度)がほとんどです。
本来最も格式の高い「大振袖」(袖の長さ114cm超)は着られることはほぼありません。5つの家紋入れたりするのが正式であり、レンタルでは家紋入りを出せないのが理由かもしれませんね。


現代の着物への価値観はいつ頃に形成された? -着物の高価格化が袖の形状を決めた?-
この時期については諸説ありますが、おおむね共通して書かれているのは特に戦後、洋装化が急速にすすみました。その結果、急速に着物文化は衰退し、昭和45年には年間1人あたり0.5着の着物が購入されていたものが、平成25年には0.017着と激減ました。
wasou

その中で生き残りをかけた呉服屋は、高級化路線を推し進めます。その中で継承されなくなった着物文化を自分たちの手で発信する必要に迫られます。

そこで誕生したのが着物教室。そこで教えられているのが、現在の着物の着方です。本来は庶民の着物の着方はあんなに堅苦しいものではなかったと言われています。

またその過程で着物の格付けを推し進め、絹の着物を最上位に改めて格付けし(江戸時代もそうでしたが)、この絹の着物を主力商品としました。元々は絹の着物は高貴な身分、すなわち家事をしない人々が着る服だったので袖は長く見た目重視なものでしたので、それが広がったことで、着物のイメージはあの袖が普通となりました。

ただ元々の庶民の着物は、時代劇でズボンみたいなのをはいている人たちが着ていた、袖の短いものが主流だったようです。

 
服装の歴史 (中公文庫)
高田 倭男
中央公論新社
2005-11T